公演の聴きどころ
HIGHLIGHT

ニューヨーカーたちがスタンディングオベーションで興奮する、
ヤニック・ネゼ=セガン指揮METオーケストラ

音楽ジャーナリスト 小林伸太郎(ニューヨーク在住)

METオーケストラ
写真 ©Chris Lee

メトロポリタン・オペラの管弦楽団は、おそらく世界で最も忙しい管弦楽団の一つだ。2023〜24年シーズンは、33週間にわたって18演目(ヴェルディ「レクイエム」を含めると19演目)から成る200回近くの公演のために、(「レクイエム」を除くオペラ公演で)オペラハウスのピットに入る。そんな忙しいスケジュールに加えて、彼らはカーネギー・ホールの大小の会場で、オーケストラおよび室内楽の演奏も定期的に行なっている。METオーケストラ(The Met Orchestra/メトロポリタン歌劇場管弦楽団)の名前で行われる大ホールでのオーケストラ演奏会はいつも大変な人気で、去る2月1日に行われた演奏会も、早くからソールドアウトの盛況だった。

METは創設以来、その時代の一流の指揮者を数多くオペラハウスに迎えている。アルトゥーロ・トスカニーニが米国デビューを果たしたのは、METの管弦楽団との交響曲演奏会であったし、カルロス・クライバーが指揮をした唯一の米国のアンサンブルがMETであることも有名な話だ。しかし管弦楽団としての彼らの存在を決定的にしたのは、30年ほど前からカーネギー・ホールを中心に定期的に行なってきた、METオーケストラとしての演奏が高く評価されてきたからだろう。

ヤニック・ネゼ=セガンが2018年に音楽監督に就任してからも、カーネギー定期はもちろん、コロナ後初の演奏会となったリンカーン・センターの野外会場でのマーラー交響曲第2番、同時多発テロ20周年を記念してオペラハウスで演奏されたヴェルディ「レクイエム」など、オーケストラ作品の感動的な演奏が続いている。ネゼ=セガンとMETが2021年9月、MET史上初の黒人作曲家によるオペラ、テレンス・ブランチャード作《Fire Shut Up In My Bones》でコロナ後初のシーズンを開幕させたことも記憶に新しい。彼らのインパクトが社会的にも高まる中、ここ数年は、ニューヨークのオーケストラといったら、ネゼ=セガンが率いるMETオーケストラを最初に思い出すニューヨーカーも少なくないのではなかろうか。ニューヨーク・タイムズ紙も、2021年11月に「ヤニック・ネゼ=セガンは今やニューヨークの指揮者」と題する記事で、彼のニューヨークにおける確固とした存在感の高まりをレポートしている。

2月1日の演奏会の前半の目玉は、折からヴェルディ《運命の力》新制作初演のためにニューヨーク入りしていたソプラノ、リーゼ・ダーヴィドセンをソリストに迎えたワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」であった。果たして彼女の歌唱は期待を裏切らない素晴らしいものとなり、METオーケストラもネゼ=セガン指揮の下、彼女の声を包みながらワーグナーの世界に溶け込み、大喝采を浴びた。しかしこの日最大の呼び物は、何と言っても休憩後に演奏されたマーラーの交響曲第5番だった。

今回マーラー5番がプログラムされたのは、それだけこの曲が人気だからということであり、現在の不穏な世界情勢を見越していたというわけではないはずだ。しかし、ユダヤ系の住人が多いニューヨークで、重々しい葬送行進曲に始まり、激しい嵐、アダージェットの静謐感を経て、輝かしいエネルギーの炸裂で終わる本曲に、現在を意識しないのはむしろ不可能かもしれない。この日のネゼ=セガン率いるMETオーケストラのサウンドは、そういった感じ方も含めて、聴き手の自由な受け取り方を尊重した、彼のポジティブなエネルギーそのままに懐の深い演奏であったと思う。

第1楽章、冒頭の鮮やかなトランペットの響きから、ネゼ=セガンはその太陽のようなエネルギーで確信に満ちた響きをオーケストラから引き出す。その確信は曲想にギアチェンジが度重なっても変わらず、構造的な対比を意識するというよりは、それぞれの楽章の性格を自然に浮かび上がらせながら、ストーリーを紡ぐといった感じだろうか。第4楽章、第5楽章では、その語り口はさらに無理のない、大きなストロークになる。とりわけ弦とハープのみで紡がれる有名なアダージェットの静かな響きには、METオーケストラのオペラハウスで培われたであろう、エモーショナルな意図を吹き込む力とともに、ネゼ=セガンが率いるようになってからの短い間に、響きに自然な呼吸が深まったことが感じられた。

ネゼ=セガンは、オーケストラに君臨する独裁者ではなく、メンバーの一員であることを望むタイプの指揮者だと聞いたことがある。彼らの演奏に感じられるプレイヤーとの信頼関係は、そんなネゼ=セガンの姿勢があってこそかもしれない。その心地よさは、いつ終わるとも知れないマーラーの最終楽章にあっても聴衆を置き去りにすることなく、最後の歓喜へと着実に導いてくれた。

演奏後のカーテンコールでは、スタンディングオベーションで興奮する観客に対し、ネゼ=セガンは飽くまでオーケストラを立てながら、満面の微笑みと共に全身から溢れる喜びで応えていた。そんな彼らのポジティブなエネルギーに、今後もますます期待したい。

METオーケストラ
写真 ©Chris Lee